田澤義鋪について


青年団の父  田澤義鋪(たざわ よしはる)

明治18年(1885720日生~昭和19年(19441124日没。 59

大正~昭和初期の官僚、社会教育家・思想家

社会教育(青年教育)公明選挙(明るい選挙・選挙粛正)そして労使協調運動に一生を捧げた。とりわけ、青年団運動・青年教育に尽力した活動で知られており「青年の父」と称されている。

 

 鹿島市城内で父・義陳と母みすとの間に長男として生まれた。

4歳で鹿島小学校に入学。旧制鹿島中学校(現 鹿島高校)、旧制第五高等学校(現 熊本大学)を経て、東京帝国大学法科大学(現 東京大学)に入学。

明治42年(1909)卒業し、高等文官行政科合格。内務省に入省する。

明治43年(1910)静岡県の安倍郡へ出向し郡長に任命される。25歳の若さであった。

 静岡県安倍郡で郡長の任にあった田澤は、地方農村において、学校教育とは無縁で教育的に見捨てられている勤労青年に注目し、教育・自己修練の場を与える活動を展開した。

田澤は青年団の指導にあたり、自らも受講者と寝食を共にする、蓮永寺宿泊講習会など実施した。

 大正4年(1915)、内務省明治神宮造営局総務課長となった。田澤は明治神宮造営に、地方青年団の労力奉仕を提案したが受け入れられなかった。そこで、ごく少数の青年を試験的に用いることで折り合いがつき、大正8年(1919)安倍郡青年団に呼びかけ着工した。規律ある生活と真面目な仕事ぶりで青年団の評価は高く、青年奉仕団の募集が発表されると、全国各地から青年が集まった。日中は労働、朝夕は田澤を中心とした講演や修養的諸行事を行い、全国の青年団運動の端緒となった。当時を代表する林学者が中心となり造営された「神宮の森」には、青年団が全国から持ち寄った木も含まれている。

 大正9年(1920)、内務省を辞め、財団法人協調会常務理事に就任し、労使協調運動に尽力し、労働者講習会を各地で開く。

大正11年(1922)ジュネーブでの第4回国際労働者会議に労働者代表として出席。

大正13年(1923政治教育を目的とする新政社を創立し、月刊誌「新政」を発刊、その第4号で「選挙粛正の機関を作れ」の論文を発表し、理想選挙の必要を提唱した。同年、実施の衆議院選挙に静岡県の青年たちから強い要請で立候補し、理想選挙運動を展開したが、次点で落選。

同年10月、東京市助役に就任。財団法人日本青年館の建設にあたった。

大正14年(1925)財団法人日本青年館開館式において『道の国日本の完成』と題する記念講演を行う。

 昭和元年(1926)東京市助役を辞任し、日本青年館および大日本連合青年団の常任理事、昭和9年(1934)理事長に就任、昭和11年(1936)まで努めた。

昭和8年(1933)貴族院議員に勅選された。

昭和5年(1930)、昭和8年(1933)の二度にわたり青年団について天皇陛下にご進講。

昭和11年(1936)、2.26事件後に発足した廣田弘毅内閣に、内務大臣として入閣を求められるも政治信念とは相容れぬため固辞。その後、大日本連合青年団理事長を辞任。

昭和19年(1944)、香川県善通寺市での「地方指導者講習協議会」での講演中、脳出血で倒れた。

  下村湖人とは同じ佐賀県出身で、五高の同窓でもあり、親友であった。湖人の著による田澤義鋪を紹介した「この人を見よ」が昭和29年(1954)発刊され、また、昭和41年(1966)には田澤義鋪顕彰会が発足し、レリーフ像が建立された。また、昭和59年(1984)に佐賀県鹿島市城内の生家に「田澤記念館」が設立された。

(鹿島市史資料編第4集『鹿島の人物誌』1987より抜粋、一部改変)

略年譜

西暦 年号

  出 来 事

1885

明18

 7月20日、父義陳、母みすの長男として生まれる。

1889 明22  鹿島小学校仮入学。

1890 明23  鹿島小学校正式入学。

1896 明29  佐賀県立佐賀中学校鹿島分校に入学。

1901 明34  熊本第五高等学校入学。ボート選手、優勝祝賀会で飲酒したことで退学処分を受け、福岡で教師をしていた姉に引き取られる。

1902 明35  後藤文夫らの復学運動が功を奏して復学。

1905 明38  東京帝国大学法科大学政治学科入学。

1909 明42  東京帝国大学卒業、文官試験合格。

1910 明43  静岡県属、安倍郡郡長となる。橋本清之助を通じ蓮沼門三の修養団に共鳴。田澤も下村も修養団から出発した。

1911 明44  結婚。

1915 大 4  内務省に入る。明治神宮造営局総務課長となる。

1922 大11  第4回国際労働会議(ジュネーブ)に労働者として出席。

1923 大12  大震災直後「天災避け難く人禍免るべし」の論文を発表、新政社創立。

1924 大13  東京市助役に就任。

1925 大14  日本青年館開館式に「道の国日本の完成」と題して記念講演を行う。

1926 昭 1  東京市助役辞任。

1929 昭 4  壮年団期成同盟会結成。

1930 昭 5  青年団について天皇にご進講三度。

1933 昭 8  貴族院議員に勅選される。

1934 昭 9  大日本連合青年団理事長に就任。

1936 昭11  広田内閣に内相として入閣を求められたが辞退。

1937 昭12  選挙粛正中央連盟理事長に就任。

1940 昭15   貴族院本会議で米内首相と松浦文相に「時局下文教の基本方針」と斉藤隆夫事件について質問。軍部の思い上がりを戒める。

1942 昭17  貴族院予算委員会で東条首相と橋本文相に「時局下文教の基本方針」について質問。

1944 昭19  3月、四国善通寺における地方指導者講習会で敗戦を公言、脳出血で倒れ、同地で静養中、11月24日逝去。

 同日付で正五位勲二等旭日重光章を授けられ、12月1日従四位に叙せられる。

 3日、青山斎場で葬儀、空襲下多摩墓地に埋骨、賢隆院殿全真義鋪大居士、59歳。


若き日の出会い

少年時代を鹿島で過ごした田澤には、生涯をともにする二人の人物との出会いがあった。ひとりは小学校時代に出会った田中鉄三郎であり、

もうひとりは高等学校で出会った後藤文夫である。田中とは中学時代に自分たちの企画で図書館(藤津郡図書室)を開設し、現在の鹿島高等

学校図書室の源流となる。そして、高校時代に田澤がボート部の祝勝会で飲酒をして退学処分を受けた際、学校に働きかけて処分を解いたのが

後藤である。また、田澤は田中の姉である中野万亀から多くを学び、その後の人生に活かしていった。


日本青年団の父

田澤は、明治神宮造営に関する工事を全国の青年団員による奉仕活動によって進める大事業を成しとげる。この大事業では全国から189の

団体、1万人を超える青年が集まった。そして、勤労奉仕をした青年団が皇太子から功績をたたえられたことを記念して、明治神宮の外苑に、

全国の青年団の中心となる日本青年館を建設することが決まった。工事が進むなか、田澤は全国青年団が連けいできるように大日本連合青年団

を創設した。その後も田澤は、ときには論文で、ときには講演で、青年らに国づくりに必要なことを語りかけ、多くの賛同を得ていった。

そして、「日本青年団の父」と呼ばれるようになっていった。


政治教育者としての田澤義鋪

田澤は、政治改革には青年団運動のほかに政治教育も必要だと考えていた。大正から昭和にかけて、政治にはどのような問題があるのかを明らかにして、問題を解決していく活動をしたのである。田澤は西洋諸国を訪れたことで、広く国民が政治についての知識が身についた国ほど、

国家の危機に立ち向かう力が大きいことを知り、国民の政治教育が必要不可欠だと考えた。そのなかで、賄賂や利害によって行われる選挙を

正す選挙粛清運動を全国に展開した。また、女性には選挙権があたえられなかったことに対して、女性はどのような段階をふんで国の政治に

かかわっていけばよいかを伝える活動を行った。しかし、これらの活動は、太平洋戦争へと突き進む社会の波に飲まれていった。


現代社会への影響

田澤は終戦の前年となる1944年に亡くなった。戦後、連合国軍の占領下に置かれた日本は、マッカーサーの指導のもと民主化改革が進められた。戦後すぐに選挙法が改正され、20歳以上のすべての男女に選挙権があたえられ、日本国憲法では、労働者の権利である労働三権

(団結権・団体交渉権・団体行動権)が認められ、労資問題の話し合いがスムーズに進む道筋が整備された。また、教育基本法では、政治教育

をすることが定められた。さらに、腐敗した選挙を正すために「公明選挙運動」が展開され、後に「明るい選挙推進運動」へと発展した。

田澤が進めてきた政治改革は、ここで実を結ぶことになり、まさに「鹿島が生んだ現代日本の設計者」といえる。


田澤義鋪の座右の銘(大切にしている言葉)

『平凡道を非凡に歩め』

 平凡道⇒人間の生活に毎日必要な当たり前のこと 非凡⇒それを当たり前でなく人一倍念入りにやる

 その積み重ねが非凡な結果として実を結ぶのであって、一挙に非凡なことができるのではない。

『虚空に矢を射る

 「どこへ届くのか、何に当たるのかもちろん私にも分からない。的のない虚空に向かって、放っている矢は、社会と時勢と祖国と人類と、

 そして大いなるものとが必要とするなら、必ず拾い上げて利用してくれるであろう。どんなに小さな力でも、たとえそれが善であれ悪であれ

 永遠に無限に繰り返される積み重ねられる時、そこに過大な結果が与えられるであろう。」

 つかみどころがないほどに大きな理想を目指すという気概を込めたのだろう。いつ届くとも知れない矢だ。自らの功名心や実利を求めた

 のではなかった。目に見える効果がないからといって失望しないし、運動を無意味とも考えない。徐々に浸透し、いつか必ず効果が現れる

 ことを信じている。                 

『故郷に錦を飾るよりも、故郷を錦で飾れ』

 「錦を着て郷土に帰ることを願うまえに、先ず郷土を錦とすることを願え。」「国家を論ずるまえに、先ず理想郷土の建設を通じて具体的に

 国家に奉仕し、その盤石の固きに置け。」錦を着て郷土に帰る人が幾人あっても郷土は依然としてぼろを着なければならないことが多い。

 今後の日本が切に求めているのは断じてそうした立身主義者ではなく、じっくり腰を郷土に落ちつけ、郷土そのものを錦するという念願に

 燃え、それに一生をささげて悔いない青年、こうした青年をは輩出してこそ真に輝かしい生命の力にあふれるのである。