田澤義鋪と下村湖人


東京都小金井市「浴恩館」所長の下村湖人と田澤義鋪
田澤義鋪と下村湖人

  田澤の伝記「この人を見よ」の著者下村湖人(しもむらこじん)が、田澤を知り共に青年教育の道を歩むことになるきっかけは、熊本第五高等学校時代に遡る。

 学校の食堂で大飯食いの学生がお櫃を独り占めするのに腹を立てた学生達が、彼に食卓に着く前にご飯の大半を食べておこうと相談している側を偶然に田澤が通りかかり、三歳の頃に父親から学んだ論語の「己の欲せざる所は人に施すことなかれ」を何げなく説いたことが近くにいた下村の耳に入り、この人物こそ生涯の師だと感動したことに始まる。

 

田澤義鋪と下村湖人の比較略年譜

 

西暦 年号 田 澤  義 鋪 下 村  湖 人
1884 明17   10月3日、父内田郁二、母つぎの次男として生まれ虎六郎と名付けられる。
1885 明18 7月20日、父義陳、母みすの長男として生まれる。 生後まもなく里子に行く。
1888 明21   里子から実家に戻る。
1889 明22 鹿島小学校仮入学。  
1890 明23 鹿島小学校正式入学。  
1891 明24   神埼小学校入学。

1896

明29 佐賀県立佐賀中学校鹿島分校に入学。   
1898 明31   佐賀県立佐賀中学校に入学。 
1901 明34 熊本第五高等学校入学。ボート選手、優勝祝賀会で飲酒したことで退学処分を受け、福岡で教師をしていた姉に引き取られる。  
1902 明35 後藤文夫らの復学運動が効を奏して復学。  
1903 明36   熊本第五高等学校入学、一級上の田澤義鋪を知る。
1904 明37   五高校友会誌の編集委員になる。
1905 明38 東京帝国大学法科大学政治学科入学。  
1906 明39   東京帝国大学文科、英文学専攻。夏目漱石の英文学、元良勇次郎の心理学に興味をもつ。
1908 明41   『帝国文学』の編集委員になる。同誌5月号に小説『老女』を発表。
1909 明42 東京帝国大学卒業、文官試験合格。 東京帝国大学卒業、一年志願兵として佐賀連隊に入隊。
1910 明43 静岡県属、安倍郡郡長となる。橋本清之助を通じ蓮沼門三の修養団に共鳴。田澤も下村も修養団から出発した。  
1911 明44 結婚。 母校佐賀中学の英語教師になる。
1913 明46   結婚。
1915 大4 内務省に入る。明治神宮造営局総務課長となる。  
1918 大7   唐津中学校教頭に転任。
1920 大9   鹿島中学校長に転任。
1922 大11 第4回国際労働会議(ジュネーブ)に労働者として出席。  
1923 大12 大震災直後「天災避け難く人禍免るべし」の論文を発表、新政社創立。 唐津中学校長に転任。
1924 大13 東京市助役に就任。  
1925 大14 日本青年館開館式に「道の国日本の完成」と題して記念講演を行う。 台湾、台中第一中学校長に転任。
1926 昭1 東京市助役辞任。  
1929 昭4 壮年団期成同盟会結成。 台北高等学校長に転任。
1930 昭5 青年団について天皇にご進講三度。  
1931 昭6  

台北高等学校長退任、東京都新宿区百人町に定住。

田澤義鋪に協力して社会教育、とくに勤労青年の指導に専念することを決意、大日本連合青年団嘱託となる。

1932 昭7  

筆名「虎人」を「湖人」に改める。

大日本連合青年団において第1回社会教育研修生を採用、その指導主任となる。

1933 昭8 貴族院議員に勅選される。 歌集「冬青葉」出版。大日本連合青年団講習所長になる。
1934

昭9

大日本連合青年団理事長に就任。  
1936 昭11 広田内閣に内相として入閣を求められたが辞退。 「次郎物語」の執筆に着手、雑誌「青年」に連載。
1937 昭12 選挙粛正中央連盟理事長に就任。

連載中の「次郎物語」が自由主義的だとの非難あり中止のやむなきにいたる。

4月青年団講習所長辞任、自由な講演と文筆生活に専念することに決める。

1938 昭13  

「論語物語」出版。

田澤義鋪の創設した壮年団中央協会の理事に就任。中国視察の旅に出る。

1939 昭14   「煙仲間運動」を提唱、雑誌「壮年団」に論陣をはるとともに全国を遊説。
1940 昭15 貴族院本会議において米内首相並びに松浦文相に対し、時局下文教の根本方針と斉藤隆夫事件に関連して、政府と議会との職分につき質問、暗に軍部の思い上がりを戒める。  
1941 昭16   「次郎物語」出版。(後の次郎物語第1部)
1942 昭17 貴族院予算委員会で東条首相と橋本文相に「時局下文教の基本方針」について質問。 「続次郎物語」出版。(後の次郎物語第2部)
1944 昭19

3月、四国善通寺における地方指導者講習会で敗戦を公言、脳出血で倒れ、同地で静養中、11月24日逝去。

同日付で正五位勲二等旭日重光章を授けられ、12月1日従四位に叙せられる。

3日、青山斎場で葬儀、空襲下多摩墓地に埋骨、賢隆院殿全真義鋪大居士、59歳。

「次郎物語」出版。(後の次郎物語第3部)
1948 昭23   「新風土社」をおこし月刊『新風土』創刊、「煙仲間運動」の拠りどころとする。
1949 昭24   「次郎物語」出版。(後の次郎物語第4部)
1953 昭28   雑誌『新潮』に小説「隣人」を発表。
1954 昭29  

「次郎物語第5部」「現代訳論語」出版。

11月2日未明、伝記『田澤義鋪』脱稿、4日病床につき、8日入院。

1955 昭30  

自分の設計した書斎完成、2月2日退院、その室で療養。

4月20日午後11時2分、脳軟化症および老衰のため死去。

松月院墓地に埋葬、覚性院文園徳潤居士、71歳。