中野万亀は明治五年(1872)七月十六日に田中馨治と縫の長女として、鹿島で生まれた。縫は幼い万亀を慈しみ、大事に育てた。縫は篤誠院のもとで学んださまざまな技能だけでなく、自分たちの生活を支えてくれる人たちのために何ができるのかを第一に考えるという、篤誠院がもっとも大切にしていた考えを年齢に応じて万亀に教え諭したのである。明治二十五年(1892)四月、万亀は伊福の中野権六と結婚した。
中野家に嫁いだ万亀が最初に取り組み、生涯を代表する事業となったのが地域の青年たちのために開いた中野夜学会である。この時、田澤はまだ七歳であった。田澤よりも早く、万亀は農村青年の抱える問題とその解決に尽力していたのである。万亀の弟である鐵三郎を通じて、万亀の取り組みが田澤の思想に影響を与えたのかも知れない。万亀と田澤の交流を物語るものに、田澤の日記がある。田澤の日記は昭和五年(1930)からのものが断片的に遺されているが、簡潔な記述にとどまっている。万亀についても来訪してきた旨の記述はあるが、要件などは、記されていない。昭和十年一月十二日から十三日にかけて、田澤は古枝村(現在は鹿島市)にある鹿島鍋島家の菩提寺普明寺で開かれた藤津郡青年団幹部の宿泊講習に参加した。十三日の早朝に普明寺の裏山にある田島勝爾の果樹園を見学した後、万亀とともに、鹿島における定宿であった森田判助邸に向かっている。万亀は講習での田澤の講演を聞きにきていたと思われる。そのほかにも東京の田澤邸に万亀が訪ねてきた記述が三回みられる。田澤が青年団活動や政治教育運動の構想を練り上げていくうえで、特に女性の参加や役割という部分において、万亀の存在は無視できないのではないだろうか。また、田澤が全国規模で活躍を始めた後は、万亀も田澤から大きな影響を受けたと思われる。